虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト:色々な事物を取り上げます。

もの食う人びと〜辺見庸(へんみよう)・書評


 この本は1991年「自動起床装置」で第105回芥川賞を受賞した辺見庸氏が共同通信社の企画として世界各地を回り、食の見地からそれぞれの地域の現状を書き取った食・エッセイです。1994年出版。


 全5章からなり、1)東南アジア 2)ヨーロッパ(東欧も含む) 3)アフリカ 4)ロシア(ウクライナも含む) 5)韓国  などを取り上げています。全31話。


 このエッセイは、「日常の中の非日常」「非日常の中の日常」をうまく掬い上げているように思えます。さりげなく「人肉食」の話も取り上げられていますし(「ミンダナオ島の食の悲劇」)、アドリア海ではまだ戦火の残る海域でイワシ漁に出るクロアチアの男たちの話も取り上げられています(「魚食う心優しい男たち」)。ピナトゥボ火山の噴火により山を降りることを余儀なくされた部族の長、なぜか下界で覚えたインスタント・コーヒーが大好きになっちゃったお話。(「ピナトゥボの失われた味」)ロシアで軍事物資、とくに兵用の食糧をだれかが横流しして、栄養失調で4人の兵が死亡したお話とか。(「兵士はなぜ死んだのか」)・・・このように示唆的なお話が並んでいます。内、とくに印象に残ったお話2つを以下にクローズ・アップします。


 「食とネオナチ」・・・ベルリンの壁崩壊後の旧・東ドイツで、トルコ料理店を営むトルコ人が急増し、ドイツ人のなかでは「ネオナチ」と呼ばれる若者たちがトルコ人たちを襲う事件も相次いでいるとか。「非日常の中の日常」という例です。もともと東ドイツに働きに来ていて、工場をクビになったトルコ人たちはしかたなくトルコ料理店を出店しているのだとか。世界三大料理に数えられるトルコ料理自体は、ドイツ人にも結構受け入れる人がいるようですが。
 トルコ人は言います:「ネオナチ」の若者より、その破壊行為を容認しているこの国のお偉方が問題なのだと。


 「禁断の森」・・・「日常の中の非日常」。1986年のチェルノブイリ原発事故後、8年目にして現地に入った辺見さんの観察が鋭いエピソードです。1.0μシーベルトセシウム137など、今の日本でもおなじみになった原発事故関連用語がさりげなくでてきてゾッとします。


 取材当時(1994年)でも、魚、キノコ、リンゴなどにはいまだ放射性物質が残留していて、食べないほうが良いと言われていましたが、一時疎開していた住民が「村のきれいな空気が懐かしくて」と戻ってきて、もりもりこれらの食材をたべているのですね。酒(ウオツカや赤ワイン)は放射能を洗う、だからここで取れたリンゴを酒にしたもの(サマゴン=密造ウオッカ)も効果があると信じていて、森のキノコ(放射能が一杯)を食べ、ペチカで薪(森で取れたもの、放射能が一杯)を燃やす・・・こう言った感じで生活しているのです。恵をもたらすはずの森自体が放射能汚染されていて、毒の倉庫になっているのですね。


ほかの場所には安住できない、だから放射能汚染地でも戻ってきて住む。・・・こう云った選択肢を笑える人がいるでしょうか。むしろ、彼らの行為には、宗教的な荘厳ささえ覚えます。



今日のひと言:食をテーマにしたエッセイはいろいろあり、このブログで何回か取り上げた水上勉さんの「土を喰う日々」のように、日常生活を描き、非日常は描かない作品もあり、私はこのようなエッセイが好きですが、今回取り上げた「日常の中の非日常」「非日常の中の日常」を取り上げたジャーナリストとしての辺見庸さんの視点は立派だなと思います。ただ、裏を言えば、民族学者がやるように、フィールドの現地に長期滞在して研究するという時間的余裕はなく、辺見さんのエッセイはスナップショット民族学者の研究は映画である、といった違いがあると思います。


 それにしても、約2年で世界を回る、それも現地の通訳付きで、というこのプロジェクトには、大金が掛かったでしょうね。共同通信社という後ろ盾がなければできない仕事だったか、と思います。




今日の詩(今様


もしも私が
地球なら
カカトのヒビは
活断層

   (2012.03.08)





今日の一首

持ち主が
亡くなったかや
前借りた


畑があはれ
空き地となれり


「畑の作り方が汚い」と言って、私から畑を取り上げた地主、隻手(片手)でしたが、もう亡くなられたのでしょうか?

   (2012.03.10)


もの食う人びと (角川文庫)

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もの食う人びと―コミック版

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檀流クッキング (中公文庫BIBLIO)

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