虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

「プロレタリア文学」としてのマンガ(散文詩)

 以前、フリーターとか派遣社員たちの間で「我々の境遇と似ている」という理由で、小林多喜二作の「蟹工船:かにこうせん」が話題になり、実際読まれたことがありますが、この作品のような文学を「プロレタリア文学」と言いますね。


プロレタリアとは、広辞苑によれば「資本主義社会において、生活する手段を持たず、自己の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者の階級。無産階級。⇔ブルジョアジー」であり、またプロレタリア文学とは「プロレタリアの生活に根ざし、その階級的自覚に基づいて、現実を階級的立場から描く文学。19世紀中葉から1930年代中頃にかけて行われ、わが国では大正末期から昭和初頭に大きな勢力に育ったが、弾圧によって1934年(昭和9)以後壊滅。」・・・とあります。


 私も小林多喜二の「蟹工船」「党生活者」などを読んだことがありますが、それなりの訴求力があったことは解りましたが、「この種の小説って、芸術的と言えるのかな?」と思いました。どうも、小林多喜二に代表されるプロレタリア文学は、「芸術的」というよりは「教条的」な気がしたのです。


 その違和感の意味することが、私自身の構想したマンガにもあったことに思いを致すと、なかなか意味深長なのですね。私は教養学部の学生だったとき、マンガクラブに籍を置いていたことがあり、また、理科一類からフランス文学科文転しようと思っていて、それまで4編の短編マンガを描いていましたが、思うところあり、マンガクラブを辞め、フランス文学科に行くのも止めにして、工学部・都市工学科に進みました。


 その際、私の彼女(候補)とも連絡しませんでしたが、お互いに逢いたくて、彼女に時間を作ってもらい、彼女のなじみの喫茶店で再会しました。ただ、その後、私は専門として選んだ「水」の諸問題を追求する一種の「市民運動家」になりました。その転向は、彼女から見たらトンデモな決断であり、彼女との仲も破綻しました。


 この頃です、私があるマンガを構想したのは。水道水中の発ガン物質・トリハロメタンをテーマに、「飲食店で何気なく合成洗剤であらったコップに水道水をそのまま入れて飲む」・・・という当たり前な光景の奥には、「トリハロメタンが遺伝子を疵付け(イニシエイター)、合成洗剤がその傷を拡大する(プロモーター)」という厄介な問題があるのを。これは、専門上、知りえた情報です。


 私は、先に挙げた「聞き分けのない」彼女も含め、あらゆる人に公害問題を知って欲しくて、そのマンガを構想したというわけですが、これは、冒頭に挙げた「プロレタリア文学」と発想が同じなのですね。「素直に人の話を聴け!!」ないしは「柔順なこと天使のごとくあれ」という感じの作品になったことでしょう。例の彼女にも、やはりそっぽを向かれるのが落ちですね。


プロレタリア文学としてのマンガは、それを読む人に、「特定の観念を植え付ける」という意味で、ある意味傲慢な作話態度です。ただ、そのマンガは実際には描きませんでした。(←そんなヒマ、なかったし。)なにか主張があるなら、それを作品中の一挿話にすればもっと良いですね。


芸術は芸術。自然科学や社会科学のシモベではないのですね。




今日の一句



匂い立つ
菊花展なり
さまざまに


私の地元の寺院で、毎年開かれる菊花展です。

  (2011.11.21)

だからプロレタリア文学 名文・名場面で「いま」を照らしだす17の傑作

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蟹工船・党生活者 (角川文庫)

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