虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

「きりひと讃歌」・・・もう一つの「ブラック・ジャック」


  手塚治虫特集 その2(全2話)


 手塚治虫はもともと医師で、医学を取り上げたマンガには、他の追随を許さぬものがあります。「ブラック・ジャック」がもっとも有名ですが、「陽だまりの樹」・「きりひと讃歌」なども名作です。


 今日は長編「きりひと讃歌」を取り上げます。70年代、奇妙な病気が人びとの耳目を集める事態になっていました。それは「モンモウ病」。・・・顔がイヌのようになり、四肢にも変形が起こります。体毛も濃くなり、あたかもイヌやキツネのような外観になってしまうのです。また、無性に生肉が食べたくなり、死にいたる患者も多いです。

 
 M大学第一内科の教授:竜ヶ浦は、この病気を「伝染病」だとしていて、「風土病」であるとする小山内桐人(おさない・きりひと)のレポートを無視します。さらに、「きりひと」をモンモウ病の患者が多発している四国の犬神沢に派遣します。ここに、竜ヶ浦の陰謀があったのです。


 竜ヶ浦がそのときもっとも欲していたのは、「日本医師会会長」の椅子であり、それに推挙されるための実績作りで「モンモウ病」を「伝染病」にする必要があったのです。それに異を唱える「きりひと」をモンモウ病に罹患させ、死ぬなりなんなり、医学界から抹殺するつもりだったのです。とんでもないマキャベリストです。そして、世界に「モンモウ病・ウイルス説」を発信し、みごと日本医師会会長の椅子を手に入れます。幸福の絶頂!!


 一方、犬神沢に派遣された「きりひと」は、村ぐるみの陰謀(竜ヶ浦の意向)のなか、果たしてモンモウ病に罹ってしまいます。そこから、彼の流転の人生が始まります。犬神沢の現地妻・「たづ」はホームレスの男に強姦されて死んでしまうし、拉致されて渡った台湾では見せ物にされます。(催淫剤を飲ませたメスイヌとまぐわせるとか。)ここで知り合った人間テンプラ(コロモをつけてゆだる油の中に入り、コロモの表面が揚がったところで取り出す)を芸にする麗花とパレスチナに飛び、芸の最後、すくいあげる柄杓(ひしゃく:大きなオタマのようなもの)が折れて、湯だった油の中のコロモに包まれた彼女を引き上げそこない、本当に麗花がテンプラになってしまうとか・・・


 そして、パレスチナに居を定めた「きりひと」は、周囲の村々から来る貧しい人たちの診療をこととするようになります。そんなある日、ふと「竜ヶ浦」がモンモウ病「伝染病説」を学会で発表したことを聞き、ここに至って、竜ヶ浦の野望のため、自分は犠牲にされたと気付き、復讐を誓います。それは、社会的な復讐はもちろん、モンモウ病が「伝染病」か「風土病」かという論争の決着です。


 ところが、その竜ヶ浦も、モンモウ病を発病します。種を明かせば、彼は「智恵水」という例の犬神沢から取ってきたミネラル・ウォーターを愛飲していたのです。ドイツのマンハイム教授は、「水に微量含まれる希土類元素放射線を発し、体の変形を起す」という結論を世界に向けて発表し、竜ヶ浦を呆然とさせます。そして、「智恵水」の成分をM大学でやったところ、ウイルスは発見できず、マンハイムの言うとおり、希土類元素が検出されたのです。これでモンモウ病=風土病と決まりましたが、竜ヶ浦は認めようとしません。


 まるでブルドッグのような風貌になった竜ヶ浦、シェパードのような「きりひと」には、「私が認めない限り、決着は着かん。」スタッフには「私が死んだら、解剖して伝染病であることを示せ」と言って事切れるのです。


 そして「きりひと」は、またパレスチナに戻り、許婚の女性(この女性も、この騒動に巻き込まれて散々苦労したひと)が後を追います。大団円


 「きりひと」という名前は、もしかしてキリストを意識してつけたものかも知れない、とふと思いました。重い十字架を背負うというコミックの表紙にある画像なんかそのように意識しているのかも知れません。


今日のひと言:陰険陰謀家の竜ヶ浦、理想主義者であると同時に逞しい生活者である「きりひと」。人間類型としても面白い組み合わせです。「きりひと讃歌」は、手塚作品の五指に入るでしょう。この臨場感は、司馬遷史記にも匹敵する気がします。なお、このマンガが描かれた当時、山崎豊子さんの「白い巨塔」という外科医を主人公とする医師の権力争いがテーマの作品があり、手塚氏はこの作品を意識したという説もあります。手塚作品としては、奇を衒うことのない・正統派のヒューマニズムあふれる作品です。

昭和45年4月10日号〜46年12月25日号 ビッグスピリッツ連載
   本書は講談社 発行。全4巻。

きりひと讃歌(1) (手塚治虫文庫全集)

きりひと讃歌(1) (手塚治虫文庫全集)

陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)

陽だまりの樹 (1) (小学館文庫)


今日の一句

カブトエビ
億年生きた
強者(つわもの)や


水田に水が張られると、田圃によっては発生する甲殻類で、「生きた化石」とよばれます。
写真の中央で「オタマジャクシ」のようにみえるのが、カブトエビ
     (2011.07.16)

実は、昨年の7月1日も同じ趣旨の短歌を書いていました・・・