虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

詩と「フォン・ドマルスの原理」


以下、私は今回、かなり大胆な考察をするつもりです。表題の「フォン・ドマルスの原理」とは、以下のような法則です。


フォン・ドマルスの原理

神話や統合失調症患者の世界把握パターンを説明する、精神科医フォン・ドマルスが、豊富な症例から帰納した原理。
  通常の認識では、文法的構文の基本「AがBをする」があるとき、主語のAによって、行為者を認識するが、述語のBによって行為者を認識する者がいる、という主張である。この場合、「体をあたあためる」ものを、同じことだからと、「コタツ」と「太陽」を同一なものだと認識するようなことを指す。
 なお、コンピュータ言語の記述・解析にもこの原理は応用できる。

以上はかなり前、私がはてなキーワードにしたものです。この原理では、西欧独自の思想、たとえばアリストテレス排中律・・・A,非Aは同時に成り立たないという発想にカウンターパンチを撃つのです。なぜなら、動作の主体ではなく動作そのもので区別できるわけですから。同じ動作をするものは、同一視するわけです。


詩を語る際、比喩(ひゆ:例え)は不可欠の概念です。ここに、アルチュール・ランボーの前期韻文詩から「太陽と肉体」という作品を紹介します。一部だけですけど。



河の水と緑の木々の薔薇色の血液とが
牧羊神の血管にひとつの宇宙を注入していたあの時代を
大地は その羊蹄に踏みつけられて 緑色に慄えおののき

ランボー全詩集  宇佐美斉・訳(ちくま文庫)より


この詩の場合、ランボーが書いている「木々の薔薇色の血液」というのが、たんなる比喩か否かで批評の方向性が決まります。ただ単に比喩だと捉える見方は、私は「浅い」と思います。ランボーには、本当に「薔薇色の樹液」が見えていたのだと思います。それは、植物のなかに動物を見出す作業で、「述語が同じなら・その主語も同じとする」・フォン・ドマルスの原理が適用できるのです。


 それに加えて、ランボーは、詩人はあらゆる感覚を濫用して、ヴォアヤン(幻視者)となるものだと規定していましたから、彼の驚きべき作品群は、精神病の一歩手前まで行って書かれたものだと思うのです。ここに、「フォン・ドマルスの原理」が成り立つ条件があるのです。


今、ここに、興味深い本があります。「小説家になる!  芥川賞直木賞だって狙える12講」(中条省平ちくま文庫)ですが、この本を書いた中条さんは、実際に各種文学賞の受賞者で、なかなか面白い本です。小説の世界でも「比喩」の扱いかたは大事なようで、繰り替えし説明されていますが、この本を読んで得る「比喩」の価値は、どうも、ランボーたちの詩ほどもない気がします。


 なんだか、比喩を「テクニック」として捉えているようでね。私はこの本、真ん中くらいまで読んで続きは読みませんでした。この本では小説家は「職人」という感じがします。かつて詩人の中原中也は、「表現者としてもっとも優れているのは詩人、次ぎに小説家、最後に評論家だ」と言っていたそうです。(マンガ・含羞(はぢらひ):曽根富美子


今日のひと言:ランボーの詩で、私がもっとも好きなのは、「イリュミナシオン:飾り絵」に収められた「大洪水のあと」の冒頭部です。出典は前掲書。


大洪水の観念が腰を据えるとすぐに、
一匹の野兎が、いわおうぎと揺れる釣鐘草のなかで立ちど
まり、蜘蛛の巣ごしに虹に向かって祈りを捧げた。
 おお!身をひそめていた宝石たち、――早くも眼を凝ら
していた花々。

まさしく神話的な詩ですね。

ランボー全詩集 (ちくま文庫)

ランボー全詩集 (ちくま文庫)