虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

徳川家康の魅力・・・歴女に知って欲しいこと

徳川家康の魅力・・・歴女に知って欲しいこと


 下に掲げた絵は、徳川家康(1542−1616)を描いた絵のひとつで、「しかみ像」といいます。なんだか「歯痛」に耐えているような姿ですが、それもそのはず、家康がまだ若く、織田信長(1534−1582)と軍事同盟を結んでいたころ、武力が当時戦国一だった武田信玄(1521−1573)と争い(1572年)、さんざんに打ち負かされ
た挙句、「脱糞:うんちをたれながら」敗走し(三方々原の戦い)、そのみじめな、恐怖に打ちひしがれた姿を忘れないよう、お付の絵師に、描かせたのが「しかみ像」なのです。



 なんだか家康も、若い頃は苦労したんですね。「人間味」を感じます。そして、敢えてみっともない姿を絵に描かせるあたりが並の人には出来ません。失敗は「忘れてしまおう」という感じの人が多いでしょう。(第二次世界大戦ミッドウェー海戦で、アメリカ軍に完敗したのに、「責任は俺が取る」と言いつつ何の責任も取らなかった山本五十六とは大違いです。山本五十六は、この海戦が負けたとともに連合艦隊指令長官の地位を返上すべきだったのです。)家康はこの敗残の姿をこそ、今後の戒めにするつもりだったのでしょうね。それは、確かにそのようで、家康は以後この「しかみ像」をいつでも携行していたといいます。不屈の精神=ガッツがあるように思えます。


そして、信長からの援軍も少なく一人信玄と戦った家康は、その後、武将としての「器量」の大きさには定評が付き、彼の後半生の箔付けになるのですね。三方々原の戦い、信玄が通るのを、篭城して黙ってみているという手もあったのですから。それをしないで打って出たあたりが非凡なのですね。


 また、豊臣秀吉(1536−1598)から「江戸」という遠方に転封された家康に対し、秀吉は東海道筋に彼の子飼いの武将たち・・・福島正則(1561−1624)など腕力の強い大名たちを配置して、家康への守りにすえたのですが、家康は「関ヶ原の合戦:1600年」のときには、彼らを手なずけ、自分の味方にしてしまいます。これも、なかなか出来ることではありません。逆境を自分に有利なように変革する能力にも長けていたのですね。


 徳川家康というひとの場合、「若くして今川家に人質に出された」という話は有名ですが、彼の家族構成は良く解らんというか、母、兄弟にかんする逸話を読んだことがありません。この点、謎なのです。
 

 また、彼は浄土真宗門徒でよく旗印に「厭離穢土 欣求浄土:おんりえど ごんぐじょうど」という「汚いこの世はまっぴらだ、きれいなあの世に行きたい」という趣旨のことばを描いていましたが、ちょっと気になったのは「穢土」と「江戸」の発音が同じじゃないか、と思った点。家康は「江戸」も嫌っていたのか・・・そこで古語辞典で調べてみたところ「穢土:ゑど:iedo」 「江戸:えど:edo」・・・と微妙に違いました。だから家康は安心して江戸開府ができたのでしょうね。


今日のひと言:晩年の家康が力押しに豊臣家をつぶしにかかったのは、秀吉の嫡男:豊臣秀頼(1593−1615)が案外賢明な人だったので、自分が生きているうちにその芽を摘もうとして行動をおこしたとも言われています。その一方、滅びの美学を追求した真田幸村たちの活躍は、相対的に華々しく見えるのでしょう。でも、たぬきおやじとして腹黒く豊臣家を滅ぼした徳川家康だって十分に魅力的な人なのです。どうでしょうね、歴女の皆さん。



歴女」(はてなキーワードより)
戦国武将など歴史好きの女子、略して「歴女」と総称。“腐女子”とはまた違った部類とされている。
またカタカナで「レキジョ」とも呼ばれる。




今日の一句

   わが犬の
   桶に映えるは
   十三夜



ついでに今日の詩


 夕方
 犬の散歩の終わりころ
 ブブゼラのような音が
 聞こえてくるではないか
近づいてからよく見ると・・・


 それは横笛で
 演奏していたのは
 おじいさんだった
 ・・・雑音に近い音
 犬も興味津津だった


――彼は何をしていたのだろう?

   (10.09.21)