虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

アナトール・フランス「エピクロスの園」・・芥川の師

 
警句・箴言(しんげん:戒めの言葉)特集その2

瑣事(さじ:こまかな出来事・芭蕉とは松尾芭蕉のこと:森下注)

 人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

以上は、芥川龍之介(1892−1927)の「侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」からの引用ですが、この名言は彼の独創ではなく、アナトール・フランス(1844−1924)の「エピクロスの園」からのパクリのような感じがあります。それは、以下のような一くさりです。

官能的な人間の支払うべき代償

 日光や空気のひそかな影響、全自然から発散するあの無数の苦悩は、形や色彩の中に自己の喜びを探す傾向がある官能的な人間の支払わなければならぬ代償である。


どうでしょう、論旨は同じですね。この稿の他にも6つぐらいの項で、芥川はアナトール・フランスのこの警句集をイメージのモチーフとしています。そうです、芥川龍之介は、アナトール・フランスに私淑し、小説でも、警句集でも、アナトール・フランスをお手本にしていたのです。一種のオマージュ?ただ、その出来上がり方は全然違いましたが。


 でも、同じ懐疑主義を標榜していたとは言え、芥川は自分の生活力、生命力がアナトール・フランスに及ばないことをよく知っていて「自分には精力旺盛な半身半馬神は住んでいなかった(アナトール・フランスにはあった)」との趣旨のことを「或る阿呆の一生」の中で言っています。

 そのアナトール・フランスの、「懐疑主義者」に関する項を見て行きましょう。


 われわれはわれわれの精神とは異なった具合に出来ている精神を持つ人々を危険人物と呼び、われわれの道徳を持たない人々を不徳漢と呼ぶ。われわれはわれわれ自身の幻想を持たない人々を懐疑主義者と呼ぶ、それらの人々はわれわれのとは別の幻想を持っていないかを考えもしないで。

これは、アナトール・フランスの自画像のような項です。ただ、彼の場合、当時のフランスを覆っていた、いわゆるドレフュス事件に関わった点、ただのシニカルで冷淡な人ではなく、「善」については肯定的なヒューマニストであったと思われます。彼は善と悪の弁別がとても素直なのです。


今日のひと言:今回の参考文献は「エピクロスの園」(大塚幸男訳・岩波文庫)です。
なお、エピクロス(342BC−271BC)は、
「私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない。」
との言葉で有名な古代ギリシャの哲学者です。エピクロスは、弟子たちと一緒に農園を管理して生活の糧にしていたそうです。


参考過去ログ(アナトール・フランスについての)

アナトール・フランスキリスト教http://d.hatena.ne.jp/iirei/20100710
  この過去ログで触れた「ユダヤの太守ユダヤの総督)」のような短篇歴史小説を、芥川龍之介も書きたかったでしょう、でもそれは叶わぬ夢だったかも知れません。アナトール・フランス芥川龍之介比較文学のテーマとしても面白いものがあるかも知れません。
@「神々は渇く」(アナトール・フランス)・・・革命の狂気:http://d.hatena.ne.jp/iirei/20100715




エピクロスの園 (岩波文庫)

エピクロスの園 (岩波文庫)