俵屋宗達の視線(非・遠近法)
以前、俵屋宗達の犬:http://d.hatena.ne.jp/iirei/20070912
というエントリーをしましたが、今回はその続編です。
(「新潮日本美術文庫5」の解説に拠りました。絵も)
俵屋宗達(たわらや・そうたつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけ関西で活躍した絵師で、生没年未詳の謎の画家です。それでも、「風神雷神図屏風:国宝」などを始めとした傑作群は、そうそう他の画家の追随を許さないものがあります。「風神雷神図屏風」については、後の尾形光琳、酒井抱一などといった「琳派」の画家たちも模写していますが、やはりオリジナルには敵いません。(「琳派」とは自主的に、御用画家ではなく、時代を超えて俵屋宗達に習い、絵画作成に携わった画家たちを示します。)
今日とり上げるのは「小倉山観楓図」(西行物語絵巻より)です。↑
もちろん楓(かえで)を鑑賞するのは秋のことです。注意したいのは、楓の葉の大きさなのです。
この絵の場合、木に残っている葉も大地に落ちた葉も、みんな同じ大きさに描かれているのです。(今回の絵の場合、川にそって点々とある赤いものが楓の紅葉です。)
これって、西欧風の「遠近法」になじんだ目にはどう映るでしょう?「稚拙な絵である」ということになりはしないでしょうか?・・・いや、そうは思いません。私は、この絵に遠近法は適用できないと思います。
なぜなら、「遠近法」とは「私」という「個」から、一方的に「他者」という「個」に視線を浴びせる絵画描写法だからです。そこには、支配・被支配の文脈しかありません。近代西欧が産んだ「独りよがりの・幼稚な思考」だと思います。デカルトの「コギト・エルゴ・サム」・・・「我思う、ゆえに我あり」という言葉は容易に「ヴィデーレ・エルゴ・サム」・「我見る、ゆえに我あり」という言葉に転化できるでしょう。
一方、宗達のこの絵は、楓の葉「一枚一枚」をそれぞれに「万物斉同:荘子の使う概念」の視点で平等に描いてあるのです。もし、これが人物たちが群れる絵であれば、それなりに「一人一人」を平等に近い・遠いことに関係なく細部にわたり描かれることでしょうね。視点が多様に移動するのです。そして「一枚一枚」「一人一人」を暖かく見守るのでしょうね。その時々あるいは「楓の葉」あるいは「人間」。だから、今回の絵は、一つの視点ではなく、複眼的な視点でみるべき絵ですね。
「遠近法」の方法論とは、すなわち「西欧文明」の方法論でした。これは、乗り越えられるべき方法論ですね。
今日のひと言:俵屋宗達は、そのポテンシャルにおいて、葛飾北斎(かつしか・ほくさい)と比肩できる数少ない画家であろうと私は考えています。それは、世界レベルの絵師であるという意味で、です。
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