虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

ギリシャVSローマVSカルタゴ(地中海の覇権)


  (ヨーロッパ古代史において、ローマが地中海の覇権をどのように握るかは、あんまりはっきりと教わったことがないので、ここで調べてみます。)


 BC323年、当時のギリシャ人の考えられるかぎりの版図を切り取ったアレクサンドロス大王が死に、以降のギリシャは、彼の跡取りたちが、版図争いしていて、地中海東部地域に目をやっているのを尻目に、西地中海の覇権は、ローマとカルタゴの一騎打ちの様相を呈していました。


 でも、そこここに、ギリシャ人の影がさしているようでした。このブログでは、ポエニ戦争前後のギリシャ人を追って行きたいと思います。なお、ポエニとは、ローマがフェニキアを称した呼称です。=カルタゴ(今のチュニジアに本拠を置く)。フェニキア人は東洋系の民族で、世界に先駆けて表音文字フェニキア文字)を導入したことでも有名です。



第一次ポエニ戦争(BC264−BC241)・・・もともと、シチリア島の北部にあるメッシーナというギリシャ人国家が、おなじくギリシャ系国家であるシラクサに圧迫を受け、ローマに助けを求めたのが第一次ポエニ戦争の始まりでした。なお、島西部はカルタゴ領でした。もっともこのとき、ローマは陸軍国であり、軍艦は持っていませんでした。当初は周辺各国に軍艦をかりていました。
 戦争の結果は痛み分け。



第二次ポエニ戦争(BC219−BC201)・・・戦史に名高いハンニバルスキピオとかが登場する戦争です。この過程で、有名なギリシャ人科学者が命を落とします。それは、アルキメデス。BC212年、シラクサにて、優秀な投擲(とうてき)兵器を作ったかれは、数学者としても名高く、ローマ兵士に出会ったとき「私の円を邪魔するな」と言って、兵士に殺されたのだといわれます。なにやら円周率を計算していたらしいです。戦争自体はローマの勝ち。


 また、BC215年、カルタゴが優勢なとき、マケドニア王(ギリシャ代表)フィリッポス5世はカルタゴとの連合を画策します。これからBC205年まで第一次マケドニア戦争。このとき、ローマは正面から戦う余裕はなく、講和する。続きBC200−BC197、フィリッポス5世の指導で第二次マケドニア戦争。これはマケドニアの大敗。BC179フィリッポス5世没。このころから、ギリシャにとって、ローマは大いなる脅威だとギリシャ人は思い始めたようです。(ちょっと遅きに失したようですが)


第三次マケドニア戦争(BC171−BC168)終結・フィリップ5世の跡をついだペルセウスが、領土を拡大したうえローマに挑むが、敗北し、王自身、ローマの捕虜となる。4つの共和国に分割されたが、不満な人達が反乱を起こし、鎮圧されます。第四次マケドニア戦争(BC149−BC148)と呼ばれる。マケドニア滅亡(BC148)マケドニアはローマの属州にされる。

  (ここで、ギリシャの時代も終わるんだな。)



第三次ポエニ戦争(BC149−BC146) カルタゴ本部をローマが攻め落とし、農地に塩をまいて不毛の大地にしてしまう。ローマは被征服民には、マケドニアも含め、寛容な処置をしているのに、ことカルタゴに関しては、そうではありませんでした。やはり地中海の覇権をめぐった最強のライバルだったからでしょうか。古代の百年戦争ですね。はじめから終わりまで、118年かかっています。


カルタゴマケドニアはほぼ前後して滅びています。これが、ローマに対して、はじめからカルタゴマケドニアが共同戦線をはって包囲していれば、このような運命にはならなかったかもしれません。案の定、歴史の上では、カルタゴマケドニアギリシャ)、いずれもほぼ同時期に滅亡していますね。

そして、地中海の覇者は、ローマになったのです。




今日のひと言:今回のブログは「ハンニバル戦記(ローマ人の物語)」
       塩野七生(新潮社)を、多く参考にしました。



今日のひと言:よく禅僧が「円相図」と称して、円を描くのですが、円相図を描くような僧侶より、「私の円を邪魔するな」と兵士に一喝したアルキメデスのほうがよほど高い境地にいたのだと思われます。



ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) (新潮文庫)

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カルタゴ興亡史−ある国家の一生 (中公文庫BIBLIO)

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