虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

老子問答   その4

**老子は古代中国の哲学者。図書館の司書をしていたが、当時の王朝が衰微したのを感じ、西方に向かうとき、関所の役人・インキにリクエストされ、「老子」上下2編を著したと伝えられます。(今回も3回シリーズ。他の記事と飛び飛びにエントリーします。)



 老子の本当の姿とは?
老子」。
あ〜なんか老子のイメージが変わっちゃったなー。第26章は戦争の軍の指揮者の態
度をもっとしっかりするんだ、みたいに叱っておるし、う〜ん、戦争で大きな打撃を
受けたこの敗戦国日本では、老子がこのようなことを言っていることは伏せてあるか
のように、ちょっと感じの違う言葉ばかりが有名になっているではないかという感じ
もしないでもなくなったなあ。
我が家に言葉を集めた本があります。その中に老子の言ったとされる言葉も載ってい
るのですが、その書いてある言葉をほんとに言ったかどうか、どこまでほんとなのか
わからなくなってきた私です。添付ファイルにしましたが、こんな言葉ばかりしか読
んでいないので、老子は、流れるままに生きている、ムリのない人、と言うイメージ
があり、森下さんの「災害の芽を摘む」で感じたのと同じようなやさしさとか、やすらぎ
を感じていました。でもたしかに、戦争のことを書いていても、なにかそこに、逆説的
というか、裏をかくような感じもあるけど、無理のなさがあるのは、なんだろ・・・。
老子」は老子本人の書いた文ということですから、しっかり読みたいのですが、
これもまた、一回読むだけでは理解したとは言えなそうな私です。(05.06.21)



(以下、添付ファイル)
 1)人生とはその時々に自然に変化し、移りゆくものです。
変化に抵抗してはなりません。
__それは悲しみを招くだけです。
現実を現実として、あるがままに受け入れなさい。
ものごとをそれが進みたいように、
自然に前に流れさせてやりなさい。


2)本当の親切とは
親切にするなどとは
考えもせずに
行われるものだ


3)白雁は白くなるために、
水浴びする必要はありません。

あなたも自分自身でいること以外に、
何もする必要はありません。


4)すべてのものの中で、もっとも柔らかいものは、もっとも堅いものを打ち負かすことができる。なぜなら、形の無いものは隙間のないところにも自由に入り込むことができるからだ。このことから、無為の働きの大きさを知るのだ。
無言の教え、無為の効用以上のものはない。しかし、このことを、本当に理解するものはほとんどいない。
柔は剛に勝ち、弱は強に勝つ。この道理を知らないものはない。
だが、実行するものはない。

  

      老子における「自我の消滅」
(レス) 老子を読み解くコツは、「自我」をどう捉えるか、扱うか、という点にある。・・
・と私は考えています。第13章で触れられている「吾が身」「無し」が、ことの他
重要です。ここで言う「吾が身が・無い」とは、戦時中の「滅私奉公」という、国家
に使い潰される、国家にとって都合のいい「吾が身が無い」ではもとより無いでしょ
う。老子は、「自我」を「消滅」させよ・・・と言っているのだと思います。これ
は、心理学的、あるいは精神医学的なレベルでの「自我の消滅」なのです。つまり
は、「自我」が死絶えた者にだけ、国家を預けることも可能になる、と言っているの
です。さもないと、13章の後半は、単に「自己保身」する者を「吾が身が・無い」
者と言っていることになり、「老子」はいかにも詰まらぬ本になってしまうでしょ
う。(そう思いませんか?)いつか、「荘子」の「虚空の船」の話をしましたね。ぶ
つかってきた船に人が乗っていたら、ぶつけられた人は怒るけど、もし、人が乗って
ない船がぶつかってきたのなら、ぶつけられた人は怒りようがない・・・と言った話
です。この「虚空そのもの」が「自我」である人なら、この話のようなことも起こり
えるでしょう。
 そこで、26章も、以上のことができる人を「君子」と呼ぶ、と考えた上で、読む
べきでしょう。ここで「君子」は必ずしも「軍事指揮官」と読む必要はありません。
「自我」を消滅させた者は、(現象として)外部のことに心動かされない、とこの章
では言っているのだと思います。
 あなたが添付してくれた4つの文章、はっきり「老子」に書いてあるのは4)だけで
すね。43章にあります。1)は、むしろ「荘子」にならあるかも知れず、2)、3)につ
いては、このような記述は「老子」で読んだ覚えがありません。これまであなたがイ
メージしていた「老子」は、私が読む「老子」とはだいぶん違うようですね。「老
子」に「やさしさ・やすらぎ」を与えるという側面も、もとよりあるでしょうが、
「生きるか死ぬか・ギリギリの体験と思考」を語るのもまた「老子」の姿だと思いま
す。そう、老子には2面性があるのだと思います。私の「災害の芽を摘む」も私なり
の「老子」ですので、書く際、このような2面性を意識していたと思います。   
                                      
        以上の記述に補足すると、「流れるままに・・・」というイメージ
は確かに「老子」にはありますね。(05.06.21)



「自我の消滅」があった人の実例は?

   「老子」__。
その老子も言っている、吾が身を無くすということ(自我の消滅)が、とても難しい
んじゃないかと、思うんです。
だから、43章のような文も書くのだと思います。
「自我」が死絶えた者にだけ、国家を預けることも可能になる__。そのような人が
国家を預かるようになったとき、どのような政治になるのでしょうか?なにか、想像
できないような気もします。そのような政治を見たことがないような気もする__。
たとえば、ガンジーとか?この、「自我」を消滅させた者は、(現象として)外部の
ことに心動かされない、というような、生きた手本を、誰か知っていたら教えてくだ
さい。歴史上の人物では、西郷さんとか?西郷さんは何かことが起こってもどっし
り構えていたと言うし、平塚雷鳥は「青踏」を出す以前、家にこもっていて、当時戦
争がおこっていたこともわからなかったという話もあるし、そのような人たちもまた
わが身を無くしている、自我が死に絶えたものに入るのでしょうか?
とにかくそうであっても、そういう人たちは少ないのだろうと思います。 が、13
章の後半は、それと反対の事を書いている。ここは、自分の事をきちっとやって、世
の中の出来事にとらわれない、翻弄されないことを書いているのでしょうか?
そのように理解した場合、西郷さんや、雷鳥さんは、26章や13章、自我の消滅
をどうじに持てていたということがわかり、自我の消滅と13章が反対のことを書
いているようでも、矛盾しない、むしろ同時に兼ね添えられるものであるのだとい
うのが見て取れます。あるいは、自我の消滅ができているものが、13章のことが
できるという例のような気もします。
私は聞きかじりの西郷さんや雷鳥さんを例に出しているだけで、本当に彼らがどうい
う人だったかどうかはわかりませんが、そういえば、と、彼らを思い出して、森下さん
の書いてくれた説明、13章、26章を吟味すると、その一なる姿(矛盾しているよ
うでもそれが同じ姿)であるものがわかったような気がしたのですが。
しかし、森下さんも、読んでいて混乱することがはけっこうありませんでしたか?
それに私は、どうせ原文読んでもわからんだろう、と思って、著者の解説だけを
読んでいる章がほとんどで、原文を読んで自分なりに理解してみることをしてい
なくて、でも、そのことが大事なのもあらためてわかったような気がします。今度、
再読する章は、ちゃんと原文を、自分の目で見らねば。安易でしたー。でもその
方(原文を自分の目で自分なりに吟味する)がもっとイメージが膨らむような気
がする・・・。

今日はこのくらいで、「生きるか死ぬか・ギリギリの体験と思考」を語る老子につい
ては、また今度になると思います。(05.06.22)



        実例
(レス)老子の説く「自我を消滅させた人のみに、国家を任せられる」(私の解釈ではあり
ますが)・・・・これを実践した人の例は確かに少数でしょう。中国でなら、「李陵」(中島敦)に出てくる司馬遷が該当するでしょう。正しいことを意見したのに、
絶対君主・漢の武帝の怒りに触れ、死刑より過酷な宮刑に処せられ、死ぬより辛い目に会
わされ、論客としてのプライドを根こそぎにされ、絶望の淵に立たされても、畢生の
仕事(「史記」の編纂)をやり遂げた彼は、宮刑にあった時点で、「自我を消滅」さ
せられた、と言うほかないでしょう。ただ、彼にはその後政治家をする余命は残され
ていませんでした。
 日本では、太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎がいい線行っていると思います。敗
戦を断じて受け入れようとはしない陸軍をうまく扱いながら、また、本人はまわりか
ら「冴えない、切れない人」と評価されていましたが、いざという時には、全く別
の、切れ者としか言いようのない手法で戦争終結まで持って行きました。この人は海
軍出身で、5・15事件で殺されかけたこともあります。鈴木の愛読書は「老子
だったとのことです。(あ。2.26事件でした。)                       
 西郷隆盛は2度も3度も島流しにされ、月照という僧侶と心中しようとしたことも
あり、死線をさまようことも多々あった人です。「空っぽの大壷」とか「巨大な鐘」
に例えるのが妥当で、「小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響く」(坂本竜馬)と評されました。人をひきつける魅力に富んだ人だったのでしょう。ただ、見ようによっては「ただのバカ」で、長州の天才軍略家・大村益次郎などは、彼をまったく評価していませ
んでした。(その後の歴史では、この2人は、刺し違えの相打ちとなります。つま
り、大村は、西郷の弟分に暗殺されますが、その前に、大村は、いずれ起こるであろ
西南戦争へ手を打って置いたのです。それで、日本最強の薩摩軍は敗北し、西郷も
自刃するのです。)西郷には、優秀な参謀が不可欠だったのでしょうね。西南戦争当時の筆頭参謀が、「人斬り」の猪武者桐野利秋程度だったのも彼にとってはまずかった。
 以上挙げた3人に共通するのは、3人とも、自分の力ではどうすることもできない
事態に遭遇し、その体験を内在化していることでしょうか。これは、宗教上の修行に
よってもたらされたのではないでしょうね。求めて修行しても得られない(得られに
くい)のが「自我の消滅」なのでしょう。
 ガンジー平塚雷鳥については、あまり知らないので、コメントは出来ません。
 私の思考パターンは、論理の飛躍が多くあるので、「老子」13章のような誤解を
受けやすい章もすんなり頭に入ってきました。「老子」にも同じ様な論理の飛躍があ
りますから。ただし論者の中では「論理は一貫」していると思います。
だから、「老子」を初めて手に取ったときも、特に読みにくいということはありませ
んでした。
 今回は、「自我を消滅させた人」の実例に筆の力点を置いたので、書けなかったこ
とは、また次回以降に。(05.06.22)


老子に関する過去ログ(Click  Please)
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20070808 :老子問答その1

http://d.hatena.ne.jp/iirei/20070813 :老子問答その2

http://d.hatena.ne.jp/iirei/20070818 :老子問答その3

http://d.hatena.ne.jp/iirei/20071126 :老子と「無為自然


老子 (中公文庫)

老子 (中公文庫)