虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

学者は、間違えるのが仕事

*1193868885*学者は、間違えるのが仕事


 ブログ「考えるのが好きだった」(http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/)の主催者・ほりさんと意見が一致したこととして、「学者は、間違えるのが仕事」である、という見解があります。誤解されやすい文言なので、以下説明をしていきます。


 まあ、学者が研究の過程で試行錯誤するのは当然です。失敗することも随伴します。その中でまれに、「失敗を失敗としない」事例が登場します。フレミングペニシリンを発見したのは、実験に失敗したシャーレの中で繁殖していた青カビを見逃さなかったからですし、近い例では、タンパク質分析装置を発明した島津製作所田中耕一さんがいます。(2002年ノーベル化学賞受賞)彼の場合も、作り損ねた化学物質を見逃さずに、実験に使って見たところ、いい結果が得られたことが大発明に繋がったわけです。


 以上のような大発見・大発明は、むしろあらかじめ設定されていたフレームの中ではなく、それを逸脱した部分にこそ鍵があったわけですね。結果として「間違えて」「仕事になった」わけです。これ(「学者は、間違えるのが仕事」)は、ちょっとひねくれた表現だけども、真理の一面をうがっていると思います。


 一方、最近では、大学法人の独立法人化が進められ、すぐに結果の出る研究が良しとされる傾向があります。それは、もちろんあらかじめ設定されたフレームの範囲で行なう研究であろうと思われ、「失敗は失敗」として棄却されることが多いでしょう、だからノーベル賞級の研究は激減すると思われます。そして、すぐに成果が出ないという意味で、基礎研究がおろそかにされるわけです。例えば、諸科学の基礎となる数学の研究予算が、日本の場合アメリカの4%という有様だそうです(06.11.5読売新聞)。


 これらの変化は、おおむね財界の意向によるものであろうと推測されます。それに呼応するかのように、東大でも「起業」ブームで、本来の学業をほっぽらかしにして「起業」に走る学生たちが目立ちます。教養課程程度の学識で、なにができるか、と私などは思ってしまいますが、いかがか。中には塾を開く人もいます。塾だったら、卒業してからでも出来ると思うのですが。東大の金看板、それだけにすがって起業するのも、なんだか情けないですね。


 このような変化は、大学人を商人にする動きだと言ってもいいと思われます。商人には失敗は許されず、結果だけが求められます。そして「間違うこと」を排除します。「間違う」ことが許されない研究は、「フレームとおりの想定の範囲内の成果」しか得られないと思うのです。学者が、「一見無駄な研究」を行なえるような自由な雰囲気の大学が必要なのだ、と思います。それは、社会の余裕度=健全さを示すのです。





今日のひと言:本当に「間違えるだけの」学研(この場合は学者の意味)も存在するかも知れません。御茶ノ水女子大学の哲学科教授・土屋賢二さんなんか、良い線行っているかも知れません。それで彼は笑いを取るのだから、立派なものです・・・ほめているのです。





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