ライフルをカメラに持ち変えて・・・写真とは
- 作者: ロバート・キャパ,川添浩史,井上清一
- 出版社/メーカー: ダヴィッド社
- 発売日: 1980/01/01
- メディア: 単行本
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- 作者: 沢田教一,沢田サタ
- 出版社/メーカー: 地方・小出版流通センター
- 発売日: 1989/04
- メディア: 大型本
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昨年・秋のフジテレビ・スーパーニュース(午後5時〜7時)で、知床半島のヒグマを追いかけるカメラマンたちの姿を放映していました。彼らの中の一人が、クマに5mほどの距離に接近して撮影していました。他のカメラマンたちも彼に習え、で接近しました。クマが向きを変え、彼らに接近!!・・・かと思ったら、クマは川の鮭が目当てで向きを変えたのみで、カメラマンたちは安泰でした。クマの専門家がクマと50mは距離を取るべきだと言っていたことを考え合わせると、このカメラマンたちの取った距離は、ある意味「自殺行為」です。件の勇敢なカメラマンにフジテレビのスタッフが「危険だぞ」詰め寄ったところ、「オレはアンタよりクマのことを知っている、余計なことを言うな」と受け答えしていました。
ところで、写真の一枚一枚はshot(ショット)と言いますね。これはいみじくも狙撃の一撃(shot)と同じ言葉です。確かに、照準を合わせて標的を狙うという意味で、写真撮影と狙撃は同一視できます。実際、ネットで「写真、狙撃」で検索してみたら、現役のカメラマンが「少女にズームアップすること」を「狙撃」と呼んでいる例がありました。違いは、実弾が飛び出すか、映像を撮るかの差異です。ヨーロッパ人のいう「未開民族」は、写真撮影を「魂が抜かれる」として嫌がったという事例が結構あります。アメリカ・インディアンしかり、江戸時代の日本人しかりです。「魂が抜かれる」=「死ぬ」ことと認識されたのでしょう。
人類が優秀な銃器を手にしたとき、まず行ったのがトラやライオンなどを狩る「猛獣狩り」でした。撃ち殺したトラをうず高く積んで、ほくほくと記念写真を撮ったりしたものでした。素手ではかなわぬ相手を苦もなく殺戮できる快感に酔ったのでしょうね。
上述のカメラマンがカメラではなくライフルを手にしたらどうなるか・・・一つの可能性として、彼はヒグマ狩りをするでしょう。カメラを持つ行為と、ライフルを持つ行為は、近接したメンタリティーに支えられているというのが私の見解で、写真撮影というのは案外残酷な行為だと思います。
戦場カメラマンとして名を馳せたひとたち、例えばロバート・キャパ、沢田教一さんたちなどは、戦場で起きた事態を伝ええる貴重な写真をものにしましたが、いずれも、戦場で悲惨な死を遂げています。彼らは正しく、ライフルをカメラに持ち変えて戦ったのでしょうね。その状況下でカメラを持つという行為は、大変アグレッシヴなものだったと推測できます。キャパも沢田も、一人の戦士だったと思わずにいられません。戦場で写真を撮る行為を支えるのは、狂気に近いパッション(情熱)だと思います。それにつけても、ミャンマーに散った長井健司さんに合掌です。
今日のひと言:普通に言う「スナップ写真」は、私の言う意味での写真にはなりません。写真とは、あくまでものごとの「歴史的とも言える事態」を記述するものであり、「顔の表情やポーズを映す」ものではないからです。その意味で、通常言う写真は「写像」とでも言い換えたほうがいいような気もします。ホームヴィデオなどの連続画像でも、同じく「写像」です。だから「ピラミッドを背景に一枚」という旅行記念写真も「写像」です。「いろいろな意味で事件の現実(真実)を語るのが写「真」です。以前中学校の国語教科書で劣悪な雇用環境で働かされる少女の映像が載っていましたが、これこそが写真と言うものです。英語でいう「Photograph」の場合、「光で描く」というのが原義で、なるほど「写像」とニュアンスが似ています。
今日のひと言2:夕方5〜6時の民放で、この前内藤大助チャンプに反則を繰り返して判定負けした亀田親子が取り上げられていましたが、亀田大毅自身はあの黄色く染めた髪を丸坊主にして現れ、ひと言もしゃべらずに他の人に連れられて会場をあとにしました。そのこと自体は問題ないのですが、民放各社、他のニュースをいっさい遮断してこの光景のみ「ずーーーと」放送していました。あんまりなのでNHKにチャンネルを変えました。あらたな弱いものいじめというスタンスをテレビ局がやっている、と思えてなりませんでした。報道して何ぼのもんだろう、え、民放各社?
今日のひと言3:学校に行くのは登校↑、帰るのは下校↓。では、学校は家よりポテンシャルが高いことになりますね。