虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

世界観の表出としてのエッセイ(山本一力と深沢七郎)

人間滅亡的人生案内 (1971年)

人間滅亡的人生案内 (1971年)

 *世界観の表出としてのエッセイ(山本一力深沢七郎
   



 エッセイ特集  その1
 (これからしばらく、都合により、ほぼ5日間隔で新着エントリーになります。ヨロシク!!)
 次のようなエッセイがあります。
『・・・ほんとに簡単な計算だが、一組の男女で子供を一人しか産まなければ一億の人間は一代で五千万人になるのは確実である。もう一代、一人ずつしか産まなければ人口は二千五百万人になって、もう一代たてば一千二百五十万人になるのである。三代たてばいまの東京都の人間だけで日本国中に住んでいいことになるのである。
  つまり、一人しか子供を産まなければ三代たてば土地が高いとか、部屋代が上がるとか、水が足りないとか、交通マヒなんてことは伝説になってしまうのである。こんな簡単な計算になるのだから人間がふえることは悪い状態なのである・・・』(213P−221Pのうち215P)
 以上の挑戦的な文章は「子供を二人も持つ奴は悪い奴だと思う」(人間滅亡の唄:深沢七郎:1971年:徳間書店)の一節です。このエッセイに対しては読む人の評価が大きく割れるだろうにせよ、強烈な世界観があると思います。そうです、たかがエッセイと舐めてはいけないのです。ただのんべんだらりとして書かれた文章(テキスト/テクスト)を、エッセイであると認める人もいるでしょうが、私は厳しく峻別します。良かれ悪しかれ、世界観があるかどうかで。
 良くない例を挙げましょう。「グラビア撮影裏話」(おらんくの池:山本一力:2005年:文藝春秋)。長いので、途中は略します。
 『ハワイへは、七月二十七日に出発した・・・シートに座るなり、次男が声を弾ませた。搭乗したハワイ便は往復とも、エコノミークラスにも個人用の小型モニターが設置されていた。こどもが喜ぶまいことか。・・・場所がいいだけに、人出も多い。レッスンは、そんな公園で行なわれることになった。しかも現地でも名の通った、フラダンサーがきてくれるという。・・・その歌声の、優雅でしかもセクシーだったこと。・・・帰国したその日から、またすぐに行きたくなる。ハワイは、まことに稀有な観光地だ。』(108P−111P)
 このエッセイの場合、ただ単に出来事が時系列で書かれているだけであることに気づくのではないでしょうか?そうです、小学生がお得意な「・・・があった。・・・があった。」式の日記作文なのでありまして、世界観などどこにもありません。抜き出しは、私が意識的に時系列部分だけをやったのではなく、全編がそうなのです。
 この程度の世界認識力の人物に「直木賞」をあたえる文藝春秋もどうかしていると思います。そうそう、「おらんくの池」の場合、突っ込み方も様々あり、「オレは、コーヒー牛乳をこよなく愛する」という「世界観」だけを披瀝したエッセイもありますし、冠婚葬祭、特に葬式の記述がよく見られます。葬式という独特な雰囲気を感じさせるネタを使えば、アナウンス効果があるのを、山本さんは心得ているようです。でもそれでさえ、山本さんの世界観がどんなものか知りえない程度の作文ですねえ。深沢七郎のような凄まじい世界観を持てとは言いません。しかしこの世界観の欠如は特筆ものです。「だって、山本一力は時代小説家だもの、エッセイが不出来でもしょうがないじゃない。」との意見も出そうですが、それこそエッセイを舐めているのです。エッセイほど、書く者の世界観を明白に、ある意味残酷に示す文藝ジャンルは外にはありませんから。翻って山本さんの歴史小説の底の浅さも垣間見えてしまいます。

今日のひと言:パスカルにしても、ルソーにしても、世界観をこれでもかこれでもか、と
       呈示しています。それでこそエッセイです。
       エッセイはフランス語でle essai、試すこと、試験、試論といった意味です。これの動詞化された単語はessayer、試験する、です。エッセイには実験精神が必要なのが解ります。エッセイとは、考える過程そのものです。