虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

詩・エッセイ・小説

撫子が斬る (光文社文庫)

撫子が斬る (光文社文庫)

こんなにも恋はせつない (光文社文庫)

こんなにも恋はせつない (光文社文庫)

      2007.3.21 森下礼     
 *詩・エッセイ・小説


 この3つの文芸ジャンル、この前つたないけれども「小説」を書いたことにより、それぞれ一度は試してみたことになるので、私から見た所の、各ジャンルの特性を見ていきます。


1) ・・・これは、私にとっては、「省察」ないしは「狂気」です。よく、散文を分ち書きにして、それを「詩」であると称する人もいるでしょうが、通常の精神状態で書きあがった文章は、韻文であっても散文であっても、詩と呼ぶには足りません。詩人の詩人たる証は、「省察」出来る人、「狂気」に浸れる人であるということです。かのアルチュール・ランボーも、「詩人の仕事は、感覚を濫用して、幻視者(ヴォアヤン)になることだ」との趣旨のことを言っています。私にしても、詩と呼べる文字列をひねり出すのは困難で、ごく希に詩作することができるのみです。でも、そのように「省察」や「狂気」の過程を経て出来てきた文字列は、自信を持って「詩」であると言えます。「省察」と「狂気」はある意味似ていると思います。


2) エッセイ・・・今書いているブログ原稿もエッセイですが、ここでやっているのは「分析」であると思います。それも、化学分析実験のように精緻なプロセスです。日記風にだらだら書き連ねた文字列は、ただの日記に過ぎず、エッセイと呼ぶには値しません。あくまで、一定の意図を持って対象を分析した結果をこそ、エッセイと呼びたいですね。


3) 小説・・・私にとって、「小説」は「計算」です。それも頭を苛めまくるアクロバット飛行のような営為です。私はかつてマンガクラブでマンガを書いていましたが、そのマンガにおいては、主人公1人の目に映った世界を記述していました。「あなたのマンガには女の子が登場しないね」と言われたものです。小説の用語で言えば、「イッヒ・ロマン:Ich Roman・ドイツ語」でした。「一人称小説」とも言います。私は「一匹小説:イッピキ・ロマン」と呼んでいますが。(駄洒落・だじゃれ)このジャンル、日本では梶井基次郎が代表なのですが、ともすると、散文詩と呼んでもいいような文字列です。ところが通常の小説には、独立した2つ以上の人格が登場し、その人格の間で、いろいろな干渉が起きます。それを描ききるのが小説家の腕前です。フランス人、レイモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)が模範となるように、これら
の干渉作用をいかに描くかが求められます。その際、論理的な矛盾はないか、という点が厳しく問われます。(少なくとも、私はこだわります)また、なにかの行動がなされたとき、進む・退く・停止の3パターンの行動のどれを登場人物に取らせるかで、「計算」の必要が生じ、ここで頭のアクロバット飛行が起きるのです。小説が終わるまで、気は抜けません。そうして出来上がったのが、この前掲載した小説「恋愛アラカルト」です。




今日のひと言:日本PENクラブという団体、Pは詩人(Poet)、Eはエッセイスト(Essayist)、Nは小説家(Novelist)です。日本では、作家といえば小説家のことを指しますが、ちょっと小説を過大評価、ないしは詩とエッセイを過小評価しているように思えます。