虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

構造主義を葬る:良かれ悪しかれフランス的なもの(語学シリーズ その1)

   (友人とのメールのやり取りから)
A:さて、アナトール・フランスは、かつて、ラブレーに関する連続講演をしたのです
が、日にちが経つにつれ、聴衆がひとり減りふたり減り・・・で、最後はだれも聞き
に来ず、それでも彼はゆうゆうと、虚空に向って講演しつづけ、完了したという話が
あります。つまらない講演だったのだろうか?それともレベルが高すぎ、そこの聴衆
には理解できなかったのか?――僕は後者だと思います。
B:でも、アナトール・フランスって人も一方通行というか、人に分かりやすくしゃ
べるという事をしないのでしょうか?う〜ん、フランス映画は分かりにくいも
のが多いし、フランスってところはそんなところ?ロラン・バルトって人の
「美術論集」という本、画家のアルチンボルトのことを書いているみたいだっ
たので買って読んだけど、こんなに難しく書いてどうするの?って感じ。森下さんが  
フランス文学を専攻するのをやめた理由のような(?)ものを感じました。
自分たちで、ある一握りの人たちが理解できればいいような狭い世界を作っ
ているというような・・・。でもそこに書かれてあることを理解できれば逸品の
ワインやハーブ酒のような味わいがあるのでしょうけどね。
アナトール・フランスは読んだことないけど、レベルは高いのでしょうね。あ
ロラン・バルトもレベルが高いのであろうか?まあ、独特な見方をする人
のような気もしますが、たいしたことも書いてないような気もするのですが、
まあ、フランスは評論もフランス映画みたいに一筋縄で行かないものがよ
い?評論家が難解な芸術家?これもまた、おもしろいざますねー。フランス
ならではかあ・・・。
A:アナトール・フランスは、難渋な小説というより明解な小説を書くひとですが、例
の講演のような「ディスコミュニケーション」の例は他に聞いたことはなく、例外
的なエピソードだと思っています。ただ、後世のロラン・バルトとか、ジャック・デ
リダとかいう評論家・哲学者は、有名な「構造主義」の信奉者です。これについて書
くと長くなるので割愛しますが、彼らは、自称「インテリ」に好まれる論者です。す
なわち、「関係性の関係性の関係性」などというようなことさら難解な言葉をいじくり、読者がわからないことを快楽とする傾向があります。読者も読者で、解かってもいないの
に解かったつもりで、解からないと正直にいう人を馬鹿にする人たちのようです。構
造主義は、「ガロア群論」(数学の一理論)に支援され、文化人類学上の理論を構築したフランス人レヴィー・ストロースから始まります。(その支援をしたのは、アンドレ・ヴェイユという高名な数学者。なお、言語学者ソシュールから構造主義は始まるという人もいますが、ソシュールでは力不足です。なぜなら、彼が作ったシニフィエシニフィアンという概念では、簡単すぎてそしてある意味複雑すぎて「構造」を語れません。単に言語学の一学説に過ぎないと考えます。せいぜいギリシャ伝来・プラトンイデア論の焼き直しという程度のものであり、「構造」とは何の関わりもない学説だと考えます。だからソシュールの論を主な起源とする「記号論」もあまり役に立たないということになります。昔流行しましたね。浅田彰とかね。さらに言えば、ソシュールの論を文芸批評、哲学その他に適用するのは、「構造」を読み取りにくくするため、有害です。)ストロースはまともな論者でしたが、その後のミシェル・フーコーあたりから難解になり、バルトやデリダは末期症状的な論者です。「言葉のための言葉をもてあそぶヤカラ」と言っていいと思います。そして彼らはみんなフランス人だったと思います。(ガロアも含めて。)あなたの言うような、フランス人の傲慢さを、見事に体現していますね。その画集、お金を損したね。確かに、フランス人にはこのような傲慢さがあると断言できます。それで仏文を諦めたわけでもないですが、今はそれで良かったと思っています。 (やり取りは以上)

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 ここに、ロラン・バルトの本があります。「テクストの出口」(沢崎浩平訳:みすず書房)。このなかの「ブレヒトと言述――言述研究のために」というエッセイを紐解くと、
「というのは、演劇では、テクストにおけると同様、言表行為(エノンシアシオン)の起源は見定めがたいからである。主体と所記(シニフィエ)のサド的な共謀は不可能である(この共謀から狂信的な言述が生まれる)。あるいは、記号と指向対象(レフェラン)との欺瞞的な共謀は不可能である(この共謀から教条主義的な言述が生まれる)。」(53P)
なになに、「主体と所記(シニフィエ)のサド的な共謀」?・・・意味が解らんのですが。まあ、シニフィエとか言述(ディスクール)、テクストとかは、構造主義者の間で通用している「隠語」だということも、それらの意味も私は知っていますが、「サド的」って、なんのことなのでしょう?それは、もちろんサド侯爵から取られた言葉でしょうが、この場合の使用意図が不明です。その上、その意味不明な言葉によって修飾される「共謀」って、なんのことなのでしょう?全体として意味不明な文字列にしか過ぎません。ここで挙げたのは、ほんの一例です。バカバカシイので、私はこの本を読むのを止めました。だいたい、訳者も訳者、頭が悪いです。「言述」なんて日本語は初耳です。フランス語でディスクール:discoursとは、単に「話」「言葉」という意味であるに過ぎません。(スタンダード仏和辞典より)ことさらに難しい言葉使いをしたがるのは、原著者も訳者も同じですね。なお、補足しておくと、フランス語は、関係代名詞(le pronom relatif)によって、ほぼ無制限に文が長くなる傾向のある言語で、「関係性の関係性の関係性の関係性の・・・」なる表現に向いた言語ではあるのです。


今日の一言:「構造主義」、あるいは「ポスト構造主義」は、数学、なかでも「ガロア群論」を理解できる人だけが語る資格があるのではないだろうか?文科系の教養しかない学者には、往々にして現実から乖離した理屈をこねくり回すタイプがいますが、彼らが書くのは無価値な文章です。バルトなど、即座にゴミ箱行きですね、私の書斎なら。この人は現実から逃れ、コトバ遊びに逃避した怠け者なのです。まあ、このような連中を、私は「文章オタク」と名づけます。(フランス語で言えばla manie du texte)意味不明のテクスト(文)を偏愛し、「意味不明である」、と指摘する人を軽蔑する者を「文章オタク」と呼びましょう。そもそもガロア群論でやったのは、5次以上の代数方程式に解の公式が見付からなかった状況において、「計算そのものをするのではなく、計算することの意味とはなにか?」ということを世界で初めて取り上げたことです。ちゃんとした実質的な目的があったのです。言葉遊びをしたのではないのです。そして、「構造」を見抜くことが、ガロア群論のメインテーマだったのです。そう言った意味で、群論は「構造主義」の根本になってしかるべきであり、数学理論わけても群論を理解できない「構造主義者」は「もぐり」なわけです。さて、私が現実の構造主義者について評価するに、そういったガロアの「メタ言語(言語を記述する言語)的な」業績の言葉づらだけなぞっているだけの営為をしてる人たちです。ねえ、バルトくん。
      なお、やはりフランス文学者の元東大総長・蓮実重彦に不愉快な逸話があります。彼の授業中、「授業が解らない」と正直に発言した学生に対し、蓮実は「それは君がバカだからだ」と決め付けたというのです。大体、10語で理解できることに100語を費やして、ないしは100語必要なのに10語しか言わないで、ことさら難解にするのですね。フランス文学者によく見られる悪風です。蓮見重彦も、バルトと同じチンピラ学者ですね。おそらく、蓮見重彦は、jeとtuの区別がつかないのでしょう。ああ、正確には蓮魅重彦というらしいですね。本名。べつになんだっていいや。チンピラなのだから。


今日のひと言2:テレビを見ていたら、パンチェッタ・ジェローラモが飲料のCMに出演していて、「脱メタボリック」とありました。私は仰天しました。メタボリック(metabolic)とは、「代謝」といった意味で、人間が生きていく上で不可欠な物質の出入りのことです。それを「脱」するとは――生存をやめること、すなわち死ぬことを意味します。そうか、ジェローラモ、あんた、自殺願望があるんだ!!!・・・・このようにテクスト(文)を読む手法を「ロシア・フォルマリズム」と言います。私は構造主義より、ロシア・フォルマリズムを高く買います。もう一の例。松本零士槇原敬之の論争の元になった「夢は時間を裏切らない」というフレーズ、夢を見るとは睡眠である、そして時間とくればそれは睡眠時間のことである、なるほど、十分な睡眠時間を取るのは必要だ。でも、なんでそのくらいの情報量のフレーズであわや訴訟沙汰になるのだろう、不思議だ。・・・・という解釈もロシア・フォルマリズムの手法で出来ます。


今日の詩:目と耳
     「愛ちゃん」は目がない
     「射矢くん」は耳がない
     2人のコミュニケーションは
     スキンシップ(触覚)。
     不即不離。

(説明)「愛ちゃん」はオトコに目がなかった。「射矢くん」は聞く耳を持たなかった。この2人が出会ったらどうなるか、考えてこの詩を書きました。



以下、wikipediaから引用します。
構造主義(こうぞうしゅぎ)とは、数学、言語学精神分析学、文芸批評、生物学、文化人類学などにおいて何らかの形で構造を重視する立場である。
一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。
数学において、ブルバキというグループが公理主義的な数学の体系化を進めているが、その中心人物であるアンドレ・ヴェイユ言語学者エミール・バンヴェニストからの影響を認めている。ブルバキはしばしば「構造主義」と呼ばれるため、「構造」の起源を求めると循環論になってしまう恐れがある。しかし少なくとも文化人類学においては、婚姻体系の「構造」は数学の群論(group theory)と直接の関係がある。群論代数学のひとつで、クロード・レヴィ=ストロースによるムルンギン族の婚姻体系の研究を聞いたアンドレ・ヴェイユ群論を活用して体系を解明した。