虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

齋藤孝の「天才論」に欠けているもの

         ガロア →
 明治大学文学部教授の齋藤孝氏にはおびただしい著作がありますが、「天才」に関する著作は特に目立ちます。そのうち、「天才がどんどん生まれてくる組織」(2005年:新潮選書)と「天才の読み方 究極の元気術」(2003年:大和書房)の2冊を読み、彼の「天才論」を検証してみます。「どんどん・・・」では、「技の共有」がいわゆる才能(タレント)を担保するという視点が語られ、いかにこれを保障していくか、また、それに成功した組織が列挙されます。一種の組織論です。目立つところでは、「スター誕生!」で生まれたアイドルたちとその取り巻きも天才と呼ばれます。(「スター誕生!」の場合は、「天才」(genius)と「才能」(talent)を齋藤氏が混同していると思われますが。)「読み方」では、自分のスタイルをもつ「上達の達人」が天才とされ、ピカソ宮沢賢治、シャネル、イチローが天才の例として列挙されます。これは一種の処世術の本であると言えるでしょう。2冊とも、始めにさっと原則が示され、実例が列挙され、章末に教訓がある点が共通しています。本が量産できそうな構成ですね。だから私も2冊、速読にて30分で読み終わりました。お手軽な本。本の書き方における「猿飛の術」だね。(「どんどん・・・」の記述を使って言えば。)・・・つづめれば、「技の共有」が保証された世界で、自分のスタイルを持って上達を心がければ、天才になれることになりますね。うーーん、本当にそうなのだろうか?安直な論理だな、との印象を受けます。なんでもかんでも天才と呼んでいるようです。
 ところで私が天才という言葉を聞いた場合、必ず思い浮かべるのは、宮城音弥の「天才」(岩波新書)です。この本のなかで宮城氏は「社会的生活を犠牲にしても創造活動を行なう者」と天才を定義しています。齋藤孝氏は、天才と狂気がしばしば共存するという理論には組みしないと言っていますから、実際には狂気に満ちた天才は多いですが、オミットしましょう。案ずるに、そのようなケースを認めると、齋藤氏の論理が破綻するのでしょう。宮城氏の定義のなかで私が取るのは、後半の「創造活動を行なう者」です。私はこれを自分の言葉にして、「それまでとは不連続な・断絶した業績を挙げた者・挙げる者」とします。業績がそれまでの人たちのそれと「異質」であることが重要です。この定義だと、天才と呼べる人は相当に絞り込まれます。あるいは、「それまでのルールを破り、新しいルールを創造する者」とも言い換えられるかも知れません。それでこそ「天」から与えられた「才」――「天才」だと思います。以上の意味で天才と呼べるのは、私が考えうる限り過去の全世界の範囲でも数少ないです。マルクス(経済学者)、アインシュタイン(物理学者)、ゲゼル(経済学者)、ニュートン(物理学者・数学者)、セザンヌ(画家)、ボードレール(詩人:フランス象徴詩の開祖)、ベル(発明家)、シューベルト(作曲家:「影法師」を頂点とするドイツ芸術歌曲リートの創始者にして完成者)、リーマン(数学者)、ガロア(数学者)などです。
 数学者エヴァリスト・ガロアについては、以前も取上げましたが、
( http://d.hatena.ne.jp/iirei/20051231 )
彼は「群論」という理論を編み出して、それまで個々の方程式を解くことの延長上でもたついていた5次以上の代数方程式を、その方程式が解ける構造をもつか否かに問題を置き換え、最終的な決論をもたらしたのです。彼の業績は50年間、数学界で理解されませんでした。いかにも「それまでとは不連続な・断絶した業績を挙げた者・挙げる者」ではないでしょうか。確かに、それまでのフランス数学界にはラグランジュルジャンドル、コーシーといった先達がいて、ガロアにも優れた教師がついていました。「技の共有」は確かにあります。また、自分のスタイルをガロアも持っていたろうし、上達もしたでしょう。しかし、こと前人未踏で過去の誰も到達できなかった「群論」の着想については、何ら説明する術を私は持ちません。ガロア自身も説明できないでしょう。齋藤孝氏の「天才論」では、この「不連続性」の意味は語れないだろうし、その意欲もないのではないか、と推測します。少なくとも、彼の論理ではガロアは扱えません。齋藤氏の場合、努力目標として彼の言う意味での「天才」を措定して、上達のための苦労を惜しまないこと・それを保証する組織を通じて、読者の学校とか社会における奮起を期待するというような意図も見えますが、その枠からはみ出したところにいるのが、私の言う意味での天才で、連続した努力の延長上に天才はある、という齋藤氏の楽天論には、私は組みしません。宮城音弥のいう「能才」(IQの高い小器用な人)が、齋藤氏の言う「天才」に近い気がします。 

ピカソ宮沢賢治、シャネル、イチローは、全て優秀な平凡人です。天才ではありません。ピカソはいろいろな画家の模倣をしましたが、例えばいわゆるキュービズムの場合、源はポール・セザンヌにあり、不連続性を持つのは、あるいは「ルール破り」はセザンヌです。模倣者はしょせん模倣者です。また、イチローはあくまでスポーツ選手であり、原理的に言えば過去と断絶したプレーをするのは不可能です。すれば、それはルール違反になるだけです。イチローのヒットは、あくまでヒットであり、それまでの選手のヒットと異質ではありません。つまり、スポーツをやる限り、天才は存在しないのです。ルールを破るのが天才。ルールを破ったらスポーツ選手ではないのです。シャネルの場合、彼女の仕事は、特許法の体系で言えば「意匠」の範囲であり、天才がカバーするのは「特許」の範囲です。宮沢賢治の場合、以後の文学界の文体に与えた影響を考えると、ゼロに等しく、その点、夏目漱石は以後の日本文学の文体を決定つけた点で評価できます。(そういう趣旨の意見を読んだことがあります。)夏目漱石をこそ天才というべきでしょう。以上、4人とも天才ではない、と論証しました。齋藤孝氏は、天才の大安売りをやっていますね。齋藤氏の言う「天才」は「巨匠:マエストロ」と言い換えるのが妥当でしょうね。ピカソ宮沢賢治、シャネル、イチローたちは、すべて「巨匠」となら言っても差し支えないでしょう。でも、「天才」ではありません!

今日のひと言: ボードレールの人生は、ボードレールの一行にも如かない。
        ――芥川龍之介警句集侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」のもじり。
今日のひと言2:中国では「天の時、地の利、人の和」すなわち「天地人」と言います。天才、地才、人才・・・と言えるように思います。織田信長は天才、徳川家康は地才、豊臣秀吉は人才であろうと思います。そして、齋藤孝氏の「天才論」では、人才、地才のみ扱えると愚考します。
            

(注) ゲゼル:ドイツの商人、経済学者。シルヴィオ・ゲゼル。1862−1930 。初め商人としてアルゼンチンで活動する。ドイツに帰り経済学者として行動する。「全ての物の価値は、時間とともに下がるのに、お金(マネー)だけは価値が上がるのはおかしい」と考えた彼は、時間とともに価値の下がる貨幣を考案し、第一次大戦で疲弊したドイツ、オーストリアの幾つかの自治体で試され、不景気が払拭された。使わないと損になるので人々が競って使った結果 である。このときは「スタンプ貨幣」という通貨単位が使われたが、中央銀行のクレームを受け中止された。
 現在、ゲゼルの考え方は受け継がれ、世界各地で地域流通貨幣が試されている。(必ずしも価値の下がる通貨ではない)
ケインズは、「これからの世界は、マルクスよりゲゼルにより多く影響を受けるだろう」と予言しています。
 参考文献:エンデの遺言NHK出版・河邑厚徳+グループ現代)

 ゲゼルと、私が考えた通貨単位「ガロア」について、過去ログで触れています。ご参照あれ。
  http://d.hatena.ne.jp/iirei/20051201
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20051202
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20051203
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20051204

雑感:*10月21日、長野県小諸市で起きた小学6年女児(12)連れ去り事件には、不思議な感じを受けます。彼女自身、「出合い」を求めてインターネットを使い、問題の31歳の男性と知り合ったわけですね。父親には買い物に行くと偽り男性と会っていたのだから、立派な共犯ではないですか。法的には未成年だけれど、いまどきの12歳の女児ならもう初潮を見ている可能性があり、いっしょにいた4日間にSEXしたとして、妊娠・出産となった場合、彼女はどのように責任を取るのでしょうか?この事件の場合、当事者男性の責任のみ問われ、女児の責任に話が至らないのが、不思議なのです。
  **文化勲章を受賞した瀬戸内寂聴、「やっと・・・」と発言しました。ふうーーん。世俗の権威をありがたがっているんだ。それでは、ここ十何年の尼さん生活って、なんだったのでしょうね。