虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

選抜試験の過酷さと不条理さ・・・科挙を例にして その3

 *選抜試験の苛酷さと不条理さ・・科挙を例にして  その3
   (私が友人と企画したけどボツになった、日本の来歴を探る高校生向けの教科書の原稿です。対話・設問形式になっています。今回はその3。最終回です。)


北宋王安石(おうあんせき:1021−1086)は、科挙だけでは不十分と考え、学校制度を導入した。ところが・・・

 「このように学校制度がせっかく設けられながら、科挙制度を圧倒して完全にこれに代わることができなかったのは、何といっても経済的な事情からであろう。教育は、元来、金のかかるものなのである。南宋に入ると、太学は規模の点では北宋に比べてずっと縮小されている。政府はえてして教育のような、すぐ目前に効果の現われない仕事には金を出したがらないものである。
以後、中国の歴史は教育に関しては、時代の進展に対して逆方向をとった。明清時代には、中央には府学、県学があったが、それは名ばかりで実際の教育を行わなかった。学校制度はかえって科挙制度の中に組みこまれてしまい、学校試は科挙の予備試験として利用されるのが実情であった。だから実際には、学校がなくなって科挙だけに還元されてしまったといってもいい。科挙も金がかからぬことはないが、学校教育に比べるとずっと安くつく。非常にイージーゴーイングな政治が、せっかく北宋時代に芽ばえた学校教育制度をおしつぶしてしまったのである。」



A:以上の記述が19世紀の中国がヨーロッパ列強にいいようにあしらわれた元凶の大きな原因の一つだろうね。少々補足すると、万人に開放された制度だとは言っても、貧乏人はその経済力の弱さで、不利であったことに違いは無い。そして、中国もこのままではいけない、と努力はするのだけど・・・・


 「ところがヨーロッパに産業革命以後の新文化が起こり、その圧力が遠く東亞に波及してくると、もう安閑としてはおれなくなった。新しい世界情勢に対応するには新しい知識、新しい技術の習得が必要である。この形勢を見てとっていち早くそれに順応し、成功したのは東亞諸国の中では日本である。維新政府は1872年、学制を発布し、次々に学校をたてて欧米にのっとった新教育を始めた。以後の急速な日本の発展はこの新教育制度に負うこと多大である。
 中国でもたびたびヨーロッパ諸国と戦って敗れた経験から、新技術を習得する必要を感じたことは日本以上である。すでに1866年において、福建に船政学堂なるものを創立して海員の養成に着手した。以後、諸種の学堂が各地に創設されたが、この新教育を行なうところを学堂と称して、在来の旧式の学校と区別した。ところがその後の成り行きを見ると、一向に新教育が発展しない。これは一方に科挙制度があってかえって新教育の普及を妨害していたためである。」

A:四書五経というのは、確かに人文科学的に完成度が高く、現代人が読んでも得られるものは大きい。詩文にしても、言語感覚を磨く意味で有用だ。でも、自然を正しく認識する自然科学が全く無視されたところに、科挙の、ひいては中国の過ちがあると思うね。また、その人文科学系科目にしても、その内容を考えさせずに、暗記のみ求めた、というのも過ちのひとつだね。これでは、社会は退化する。そこで問題。



設問:これまでの科挙に関する記述から、中国が文明の後進国になった理由を考察して述べよ。なお、その際、科挙制度が導入される以前の人物「祖冲之(そちゅうし)」について何らかの手段(インターネット、人名事典など)で調べ、この人と科挙において求められた人物像を比較しながら考察すること。
 (注:祖冲之は、ギリシャアルキメデスに比せられる科学者、技術者です。)


A:面白いのは、この祖というひと、ある数学の定数を113分の355と計算しているんだよ。   (「科挙」シリーズ   終わり)