虚虚実実――ウルトラバイバル

森下礼:環境問題研究家、詩人、エッセイスト。森羅万象、色々な事物を取り上げます。元元は災害に関するブログで、たとえば恋愛なども、広く言えば各人の存続問題であるという点から、災害の一種とも言える、と拡大解釈をする、と言った具合です。

早熟と非早熟(絵画・文学・音楽)


サン=サーンスwiki)→


 私が小学生のころ、絵に関して早熟な男子生徒がいました。とても小学校低学年とは思えないほどの上手さで、コンクールで賞を受けたりしていました。写実的であって写実的ではない、ユニークな絵を描いていたのです。私も絵は得意でしたが、とても真似できない、と思ったものです。でもその彼、年齢が加わるにつれ、絵心(えごころ)が失せていき、中学校時代は絵から離れていきました。


 また、中学校からの同級生で、読書感想文で、大手新聞社の主催するコンテストで、2度も賞をもらった者もいます。彼とは高校生時代も同じ高校でしたが、このころになると、
彼も普通の人になり、一流国立大学を卒業し、大企業に就職を決めました。


 さて、振り返って私の場合、絵については中学時代、「人種宥和」に関するポスターで県のコンクールに入賞したり、社会人になってから某月刊誌の読者欄に数次にわたって投稿が掲載されました。・・・まあ、早熟というよりは非早熟と言ったほうが実体に近い気がします。


 一方、音楽について言えば、私は音楽というジャンルに接する機会が幼少時より乏しく、中学の教科書に出て来る「文部省唱歌」の曲がいいなあ、とある同級生に言ったところ、「もっと良い音楽はほかにもっと一杯ある」と冷水を浴びせられ、なかば腹が立つと同時に、「そういうものなのかな」と半ば納得していたりしました。おそらくその同級生が言及したのは、当時人気絶頂だった「カーペンターズ」などのことでしょう。なお、音楽の時間に聴いた「白鳥」(サン=サーンス)の美しさには感嘆しました。これについても同級生は評価しなかったのかは、記憶にありません。


 再び読書感想文のお話に戻りますと、私も小学時代、「エスキモーとアザラシ」をテーマにした童話の感想文がピックアップされ、コンクールに出したことがありますが、その感想文の場合、場面ごとの感動した場面に「かわいそうだ」とか「よかった」とかの寸評をつけただけの凡庸な感想文でした。今この感想文を読むことがあったら、赤面してしまうでしょう。先に述べた大企業に就職した彼の場合、作品全体を見回して、一般妥当性のある考察を加えていたのが印象に残ります。


 「天才」と呼ばれる人たちの場合、「栴檀は双葉より芳し」と呼べる人がいます。音楽家モーツァルト、画家のピカソ、数学者のガウスなど。彼らは幼少期からその才能を発揮し、成人になってもその能力は本物でした。ところが、そうではない人も多くいます。昔、フジテレビあたりでやっていた「世界びっくりショー」とかいう番組に、韓国人の少年で、理数科にかけては専門家並だという触れこみで出演した者がいましたが、その後、この少年がどうなったか、というお話は聞きませんでした。彼の場合「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人」という言葉で括れるでしょう。


 こう見てきますと、「早熟=優れている」というテーゼは必ずしも成り立たないと思うのです。人には、その成長段階に応じた「教材」「情緒」が必要だと思います。先にあげた文部省唱歌カーペンターズを比較すれば、私の成長段階に合っていたとして、文部省唱歌の良さを解れる自分で良かったな、と思うのです。もちろん、カーペンターズによって代表される、より大人の世界に惹かれた同級生を非難する積もりはありません。


今日のひと言:私は性格的に、従来から「非成熟」を良し、とする傾向がありました。高校生のころ、・・・男子校だったのですが・・・女性のように見られたいという願望があり、大学時代初期も、長髪にしていましたが、あるとき電車の窓に映る自分の姿を「醜い」と思い、帰宅後、ばっさり自分で丸坊主にしたことがあります。非成熟に別れを告げたのです。初恋はそのうちすぐにやってきました。


参考過去ログ:田中ユキの世界〜〜早熟な女性たち

 http://d.hatena.ne.jp/iirei/20080401#1207045458


天才 (岩波新書 青版 621)

天才 (岩波新書 青版 621)



今日の一句


手が滑り
落ちたパスタは
筮竹


 私は易経による占いができますが、ある時パスタスパゲティ)の束から数本床に落としてしまいました。ああ、パスタは筮竹(ぜいちく)の代わりになるな、と思いました。なお、実際には竹ひご50本を使って占います。昔はノコギリソウヤロウ)の花茎を使っていたそうです。メギトと呼びました。
  (2013.06.27)